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娘と吹奏楽とそれからアタシ-その1-

この写真は、まだ娘がプチ反抗期くらいで可愛かった時の小6の今くらいの季節のときのものです。

さて、我が家の一人娘は高2です。小3の秋から吹奏楽をやっていました。
彼女はサックスを吹いていました。
少子化もあるのだと思いますが、娘の高校は吹奏楽班【何故だか部活の事をこの学校では班といいます】が今年の学園祭を最後に廃部というかたちになりました。

振り返るとこの8年はとても彼女が成長した年月だったと思います。
ひとりっ子という事で、私も他人から「あの子はひとりっ子だから我儘だ」とか「だから集団行動が出来ない」とか「協調性がない」とか言われるのが嫌だったから娘を小学校の吹奏楽団に入れたというのが本音です。
娘のためと言うよりは自分のためだったのだと思います、最初は…。
しかし、今となれば手薄な子育てしかしてこなかった私の助け舟がこの娘の吹奏楽生活だったと思います。

子どもにも私にも辛い生活になりました。
朝練は当たり前。休んだら怒られます。先生の体罰的なものに聞こえてしまうといけないので補足しますが、大会を一つ一つ勝ち進むことを目標に練習をするということは、一致団結が不可欠で60人以上での演奏ですので音がバラバラでは曲として完成しないのです。そのためには朝練も1人も欠けてはいけないという方針のもと「休んだらゴールド金賞がもらえない、大会に勝ち進めない」と子ども達も責任感が一人一人養われていきました。
7時30分の登校ではなく、7時30分には楽器を準備し先生が指揮棒を振れる状態にしておくのです。休みは盆と正月くらいでした。土日もGWも9~4時とまるでパートタイマー的な練習時間でした。大会前は時間を延長し、親が迎えに行くという生活をし、こうやって彼女たちは6年生まで生活しました。「ゴールド金賞!」の声は毎年聞くことができました。地区大会、県大会、東北大会。必ず行きました。
しかし、一度だけ小6の東北大会で銀賞となりその先に進むことが出来ませんでした。
子ども達の中でインフルエンザがこの時期に大流行りしてしまい、大会前に倒れる子どもが続出、演奏はひどいものでした。
子ども達、親、先生みんなで泣きました。

小6になった時、娘はパートリーダーとなりました。嬉しそうでした。しかし、実力の差というものなのでしょうか大会前に1パートから2パートに下げられあっけなくパートリーダーは別な子になりました。

その時の事は、彼女の小学校の卒業文章に書かれていました。

娘は泣いて泣いて泣いてどれくらい泣いたのか本当に親としても辛いものでした。私も子どもと一緒に泣きました。こんな辛い思いをさせるくらいならば吹奏楽をやらせなければ良かったと思う位に悲しい出来事でした。

でもそうじゃないんですよね、子どもはこの挫折で成長していたんです。2パートになり今までずっと1パートに居た時の自分が花形だと思い込み、傲慢だった自分に対し恥ずかしさを覚えて周りを見て後輩の面倒もきちんとみるようになって音も傲慢さが消えて優しい音が出せるようになっていったのでした。

人間って、そこで成長するも卑屈になるも自分次第だというのを私は子どもから教えられた様な気がします。

彼女の吹奏楽のおかげで、私は東北6県、関東色々な地方に行くことができました。
演奏は数分なので娘たちの出番が終わると結果発表までの間に観光を楽しんでいたりしました。子どもたちは他の学校の演奏を最後まで聴いていましたが、私は必ず行った先の歴史資料館などには行きたい性分なので、ウロチョロしていました。青森に行った時は三内丸山遺跡探訪を楽しみ、縄文時代は本当は定住し集落があることがわかり感動しました。それも何世代も何世代も暮らして代々その一族は役割りがあったそうで、それを物語るのが栗の木。栗の木は手をかけないと木が真っ直ぐ成長しないそうで、何十年もかけて真っ直ぐに栗の木を育てたそうなのです。
とかって、趣味の話に変わってしまいそうなので「娘と吹奏楽とそれからアタシ-その2-」でまたお会いしましょう。
ごきげんよう、さようなら。